「絵なんて、私には関係ない世界だ」
30歳を目前にした私は、ずっとそう思っていました。美術の成績は中学からずっと普通。図工や美術の授業は、特に好きでもなく、かといって嫌いでもない。「絵を描く」という行為は、私の人生において、特別な意味を持たない、日常の一部でしかありませんでした。
それが、100均で何気なく手に取った一冊のスケッチブックから、すべてが変わり始めました。
白紙のページをめくるたびに、新しい自分を発見していく。描くことで、見えなかったものが見えてくる。表現することで、言葉にならなかった感情が形になる。
たった110円のスケッチブックが、私に「創造する喜び」を教えてくれました。そして、それは単なる趣味を超えて、私の生き方そのものを変える、大きな転機となったのです。

すべては一本の万年筆から始まった
突然の贈り物
それは、29歳の誕生日のことでした。
遠方に住む祖母から、小包が届きました。開けてみると、中には美しい万年筆が入っていました。深い青色の軸に、金色のクリップ。見るからに高級そうな万年筆です。
同封されていた手紙には、こう書かれていました。
「30歳の門出を前に、何か形に残るものをプレゼントしたいと思いました。これは、あなたのおじいちゃんが大切にしていた万年筆です。おじいちゃんは、この万年筆で日記を書き、手紙を書き、時には絵も描いていました。あなたにも、何か書いたり、描いたりすることを楽しんでほしいと思います」
祖父は、私が小学生の頃に亡くなりました。優しくて、いつも笑顔で、時々不思議な絵を描いて見せてくれた記憶があります。その祖父の万年筆。
「書いたり、描いたり…」
手紙を読みながら、私は少し戸惑いました。書くことは好きです。仕事でも、メールや資料を書くことは日常的にしています。でも、「描く」こと?それは、もう何年もしていません。
万年筆を手に取って、試しに紙に線を引いてみました。スムーズに、滑らかに、インクが流れます。この感触、久しぶりです。
「せっかくだから、何か描いてみようかな」
そう思った時、ふと気づきました。描くための紙がありません。コピー用紙やノートはありますが、何となく「描く」という行為には合わない気がします。
「スケッチブックとか、あればいいんだけど」
でも、わざわざ画材店に行って買うほどでもない。どうせ、数回描いたら飽きるかもしれません。
「そうだ、100均に行けば、スケッチブックくらいあるかもしれない」
翌日、仕事帰りにダイソーに立ち寄りました。
文具コーナーでの出会い
文具コーナーに行くと、予想以上に様々な種類のスケッチブックやお絵かき用品がありました。
- A4サイズのスケッチブック(20枚綴り)
- B5サイズのスケッチブック(30枚綴り)
- クロッキー帳(50枚綴り)
- 水彩画用のスケッチブック
- 色鉛筆セット
- 水彩絵の具セット
「100均って、こんなに画材が充実しているんだ…」
しばらく棚の前で悩みました。A4は大きすぎる気がする。でも、B5は小さすぎるかもしれない。クロッキー帳って、普通のスケッチブックと何が違うんだろう?
結局、無難にA4サイズのスケッチブックを一冊選びました。表紙は黒で、シンプルなデザイン。20枚綴りなので、飽きても諦めがつく量です。
ついでに、色鉛筆セット(12色)も購入しました。万年筆で線を描いて、色鉛筆で色をつければ、何か作品らしくなるかもしれない、という淡い期待がありました。
合計220円。この投資で、何か新しいことが始まるかもしれない。そんな期待を胸に、レジに向かいました。

最初の一枚
白紙のプレッシャー
家に帰り、テーブルの上にスケッチブックを広げました。真っ白なページが、私を見つめています。
「さて、何を描こう」
万年筆を手に持ちましたが、すぐには描き始められませんでした。白紙のページには、不思議なプレッシャーがあります。「何か描かなきゃ」という義務感と、「変なものを描いたらどうしよう」という不安が混ざり合っています。
5分、10分と時間が経ちました。でも、何も描けません。
「そもそも、何を描けばいいんだろう」
風景?人物?静物?どれも難しそうです。美術の授業以来、ちゃんと絵を描いたことなんてありません。
「とりあえず、目の前にあるものを描いてみようか」
テーブルの上を見回しました。コーヒーカップ、スマートフォン、ペン立て、観葉植物。
「観葉植物にしよう」
窓辺に置いてあるポトスを、テーブルの上に持ってきました。小さな鉢植えで、緑の葉が何枚かついています。
万年筆で、最初の一本の線を引きました。鉢の輪郭です。少し歪んでいますが、まあいいでしょう。次に、葉っぱの形を描いていきます。
「あれ、葉っぱって、こんな形だったっけ?」
毎日見ているはずのポトスですが、いざ描こうとすると、形がよく分かりません。どこから茎が伸びているのか、葉っぱの先はどんな形なのか、よく観察しないと描けないことに気づきました。
15分ほどかけて、ポトスの絵が完成しました。お世辞にも上手とは言えません。バランスが悪く、線もヨレヨレです。でも、確かに「私が描いた絵」です。
「まあ、最初はこんなものかな」
色鉛筆で、葉っぱを緑色に塗りました。鉢は茶色に。少し色が付くだけで、絵らしくなった気がします。
完成した絵を眺めながら、不思議な満足感がありました。上手ではないけれど、何もなかった白紙のページに、自分の手で何かを生み出した。その事実が、嬉しかったのです。

続く毎日
その日から、私は毎晩、何か一つ描くようになりました。
二日目は、リンゴ。 三日目は、マグカップ。 四日目は、本。 五日目は、猫(実家で飼っている猫の写真を見ながら)。
どれも上手ではありません。でも、描くたびに、少しずつ何かが変わっていく感覚がありました。
特に気づいたのは、「見る」ということの意味です。
普段、私たちは周りのものを「見ている」つもりになっています。でも、実際には「認識している」だけで、本当の意味で「観察している」わけではありません。
絵を描くためには、対象をじっくりと観察する必要があります。形、色、質感、光と影。それらを注意深く見て、紙の上に再現しようとする。
その過程で、今まで見えていなかったものが、見えてきます。
リンゴの表面には、小さな斑点がある。 マグカップの取っ手は、意外と複雑な形をしている。 本の背表紙は、完全にまっすぐではなく、微妙に曲線を描いている。
「描く」という行為を通じて、世界をより深く「見る」ことができるようになっていきました。

スケッチブックがもたらした変化
通勤時間の変化
一週間ほど描き続けていると、ふと思いました。
「外でも描けたら、もっと楽しいかもしれない」
それまで、家の中で静物ばかり描いていましたが、外の景色や人々を描いてみたくなったのです。
でも、A4サイズのスケッチブックは、外で描くには少し大きすぎます。そこで、再びダイソーに行き、B5サイズの小さなスケッチブックを購入しました。
これなら、バッグに入れて持ち運べます。
翌朝、通勤バッグにB5スケッチブックと万年筆を入れました。いつもは電車の中でスマホを見たり、本を読んだりしていますが、今日は描いてみよう。
電車の中で、向かいに座っている人たちをこっそり観察しながら、スケッチを始めました。もちろん、じろじろ見るわけにはいかないので、チラッと見ては描き、チラッと見ては描き、を繰り返します。
最初は緊張しましたが、誰も私のことなど気にしていません。みんな、自分のスマホを見たり、寝たり、本を読んだりしています。
30分の通勤時間で、3人ほどの人物スケッチができました。上手ではありませんが、それぞれの特徴を捉えようとする過程が、とても楽しいのです。
ビジネススーツを着た疲れた表情のサラリーマン。 イヤホンをして、リズムに合わせて体を揺らしている学生。 編み物をしながら、穏やかな表情で座っている年配の女性。
それぞれの人が、それぞれの人生を生きている。そのほんの一瞬を、私のスケッチブックに残す。その行為が、不思議と愛おしく感じられました。
通勤時間が、単なる移動時間から、創造の時間に変わりました。朝の電車が、少し楽しみになったのです。
見える世界が変わった
描くことを続けていると、日常の風景が全く違って見えるようになりました。
駅前の風景。いつも通り過ぎるだけだった場所が、「描きたい」と思える景色に変わります。
古い喫茶店の看板。 路地裏の階段。 雨上がりの水たまりに映る空。 商店街の八百屋の店先に並ぶ野菜。
「これ、描いたら面白そう」
そう思えるものが、街中にあふれていることに気づきました。今まで見えていなかっただけで、世界は美しいものや興味深いもので満ちています。
ある日曜日、カメラを持って街を歩きました。スケッチブックも持っていますが、描きたい風景を写真に収めておけば、後で家でゆっくり描けます。
3時間ほど歩いて、100枚以上の写真を撮りました。古い建物、猫、花、看板、人々。すべてが、描きたい対象に見えました。
家に帰って写真を見返すと、自分でも驚きました。私は、こんなにたくさんの「美しさ」を発見していたんだ、と。
描くことが、私の目を開いてくれました。世界を、より豊かに、より深く見る目を。
職場での変化
スケッチを始めて一ヶ月ほど経った頃、仕事にも変化が現れました。
私はマーケティング部門で働いていますが、企画書を作る際、いつもはパソコンで文字と既存の画像を組み合わせて作成していました。
でも、ある日の企画会議で、私は思い切って手描きのイラストを加えた資料を提出しました。
商品のイメージを伝えるために、簡単なイラストを描いたのです。上手ではありませんが、温かみがあり、オリジナリティがあります。
「これ、いいね!手描きのイラスト、温かい感じがして、商品のコンセプトに合ってる」
上司からの予想外の好評価に、私自身が驚きました。
それからは、企画書や提案書に、時々手描きのイラストを加えるようになりました。複雑なものは描けませんが、シンプルなアイコンや、ちょっとしたイメージ図なら、手描きの方が温かみがあって、印象に残ります。
「最近、資料が分かりやすくなったね。イラストがあると、イメージが湧きやすいよ」
同僚からも好評でした。
描くことが、仕事にも役立つなんて、思ってもいませんでした。
SNSでの出会い
スケッチブックが2冊目になった頃、友人に勧められて、Instagramに自分の絵を投稿し始めました。
「別に上手じゃないけど、記録として残しておくのもいいかも」
そう思って、軽い気持ちで始めたSNS投稿でしたが、これが新しい世界への扉を開くことになりました。
最初は、友人や知人が「いいね」をしてくれる程度でした。でも、続けているうちに、見知らぬ人からもコメントが来るようになりました。
「素敵な絵ですね!私も描き始めたばかりで、参考になります」 「このスケッチの雰囲気、好きです。どこの風景ですか?」 「100均のスケッチブックでこんなに描けるんですね!私も買ってみます」
コメントをくれる人たちも、同じように絵を描いている人が多く、お互いの投稿を見合って、励まし合うコミュニティができていきました。
特に仲良くなったのは、30代の主婦の方でした。彼女も、100均のスケッチブックで絵を描き始めたとのこと。
「子育ての合間に、少しずつ描いています。描いている時間だけは、自分のための時間って感じで、すごくリフレッシュできるんです」
彼女のメッセージを読んで、深く共感しました。そう、描くことは、自分自身と向き合う時間なんだ、と。
オンラインで、同じ趣味を持つ人たちとつながることで、モチベーションも上がりました。「今日は何を描こうかな」と考えることが、日々の楽しみになっていきました。
スケッチ教室との出会い
偶然の発見
スケッチを始めて3ヶ月が経った頃、会社の近くのカフェで、偶然スケッチ教室のチラシを見つけました。
「初心者大歓迎!気軽に始める大人のスケッチ教室」
場所は、駅から徒歩10分のコミュニティセンター。毎週土曜日の午前中、2時間の教室です。参加費は1回1,000円。
「行ってみようかな」
今まで独学でやってきましたが、きちんと教わったら、もっと上達するかもしれません。何より、同じ趣味を持つ人たちと実際に会って、一緒に描く時間は楽しそうです。
勇気を出して、教室に問い合わせのメールを送りました。すぐに返信が来て、「次の土曜日から参加できます」とのこと。
初めての教室の日、私は少し緊張しながら、100均のスケッチブックと万年筆、色鉛筆を持って、コミュニティセンターに向かいました。
初めての教室
教室には、10人ほどの参加者がいました。年齢層は様々で、20代から70代まで。男性も女性もいます。みんな、それぞれのスケッチブックや画材を持っています。
先生は、50代くらいの穏やかな雰囲気の女性でした。
「初めての方ですね。ようこそ。ここでは、上手下手は関係ありません。描くことを楽しむ、それが一番大切です」
先生の言葉に、緊張が少しほぐれました。
その日のテーマは「静物デッサン」。テーブルの上に、果物や花瓶が配置されています。
「まずは、よく観察してください。形だけでなく、光と影、質感にも注目しましょう」
先生の指導を受けながら、描き始めました。今まで自己流でやってきましたが、プロの視点からアドバイスをもらうと、全く違う世界が見えてきます。
「そこの影、もう少し濃くしてみましょう。そうすると、立体感が出ますよ」 「線を一本一本、丁寧に引いてください。焦らなくていいんです」
2時間があっという間に過ぎました。完成した絵は、今までで一番良い出来でした。先生の指導のおかげです。
教室の後、何人かの参加者とカフェでお茶をしました。
「私も、100均のスケッチブックから始めたんですよ」
50代の女性が、私のスケッチブックを見て言いました。
「そうなんですか!私も100均です」 「最初は、高い画材を買う必要なんてないんです。大切なのは、続けること。100均のスケッチブックでも、素敵な絵は描けますよ」
彼女の言葉に、勇気づけられました。そして、この教室に参加して本当に良かったと思いました。
成長と発見
それから、毎週土曜日の教室が私の楽しみになりました。
教室では、様々なテーマに挑戦しました。風景画、人物画、動物、抽象画。どれも新しい発見がありました。
特に印象的だったのは、「外スケッチ」の日でした。
教室のメンバーで、近くの公園に行き、野外でスケッチをしました。青空の下、新緑の木々を描く。風を感じながら、鳥の声を聞きながら、自然と向き合う時間。
「こんなに気持ちいいんだ、外で描くって」
室内で描くのとは全く違う開放感がありました。そして、自然の中で描くことで、季節や時間の移ろいをより強く感じられました。
教室のメンバーとも、すっかり仲良くなりました。年齢も職業も様々ですが、「描くことが好き」という共通点で繋がっている仲間たち。
月に一度は、教室の後にみんなで食事に行くようになりました。絵の話、人生の話、悩みの話。色々なことを話せる、かけがえのない友人ができました。

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