娘が「ピアノを習いたい」と言い出したのは、小学2年生の春だった。友達が習い始めたのがきっかけらしい。しかし、我が家の経済状況は厳しかった。シングルマザーとして、パートを二つ掛け持ちしながら、なんとか生活を維持している状態。ピアノ教室の月謝、電子ピアノの購入費用。どう計算しても、今の家計では無理だった。「ごめんね」と娘に告げた時の、がっかりした顔が忘れられない。そんな時、ふらりと立ち寄った100均で、小さな楽器コーナーを見つけた。110円のカスタネット、220円のリコーダー、330円のウクレレ型おもちゃ。「本物」には程遠いこれらの楽器が、まさか私と娘の人生を変えることになるとは、その時は想像もしていなかった。
100均のカスタネットから始まった
最初に買ったのは、110円の木製カスタネットだった。
「ピアノは無理だけど、これならどう?」
娘に差し出した時、一瞬の沈黙があった。「カスタネットとピアノじゃ全然違うよ」という言葉が返ってくるかと思った。
でも、娘は小さく笑って、「ありがとう」と言ってくれた。8歳の子供なりに、母親の事情を察してくれたのかもしれない。
その夜、娘はカスタネットを鳴らしながら、テレビから流れる音楽に合わせてリズムを取り始めた。最初は単調だったリズムが、徐々に複雑になっていく。強弱をつけたり、休符を入れたり。
「お母さん、聞いて!これ、さっきのCMの曲!」
娘は嬉しそうに、カスタネットでCMのリズムパターンを再現してみせた。完璧ではないが、確かに元の曲のリズムが分かる。
「すごいね!」と褒めると、娘はもっと色々な曲に挑戦し始めた。
アニメの主題歌、学校で習った歌、街で聞こえてくる音楽。耳で聞いたリズムを、カスタネットで再現しようとする。
110円のカスタネットが、娘の音楽の入り口になった。

100均楽器のコレクションが増えていく
カスタネットに夢中になる娘を見て、私は他の100均楽器にも興味を持つようになった。
次の休みの日、娘を連れて近所のダイソーに行った。楽器コーナーには、想像以上に様々な商品が並んでいた。
- カスタネット(110円)
- タンバリン(110円)
- トライアングル(110円)
- ハーモニカ(110円)
- リコーダー(220円)
- オカリナ型ホイッスル(110円)
- ミニキーボード(550円)
- ウクレレ型ギター(330円)
- マラカス(110円)
- 鈴(110円)
「どれか選んでいいよ」と娘に言うと、娘は真剣な顔で一つ一つを手に取って吟味し始めた。
最終的に娘が選んだのは、220円のリコーダーと110円のトライアングルだった。
「リコーダーは学校でも使うし、トライアングルは綺麗な音がするから」
合計330円。ランチ一回分より安い。それで娘が喜んでくれるなら、安いものだ。
家に帰ると、娘はすぐにリコーダーを吹き始めた。学校でまだ習っていないはずなのに、簡単な音階を吹けるようになっていた。
「ユイちゃん(友達)が学校で吹いてるのを見てたの」
娘の観察力と記憶力に驚かされた。
それから毎週、私たちは100均に通うようになった。そして、少しずつ楽器を増やしていった。予算は週に300円から500円。それでも、月に2,000円程度で、様々な楽器を集めることができた。
100均楽器の品質について
100均の楽器を集めながら、私はその品質について学んでいった。
正直に言えば、100均の楽器は「本物の楽器」と比べれば、品質は劣る。
音程の問題: 110円のハーモニカは、音程が微妙にずれている。正確な音感を養うには向かないだろう。
リコーダーも、指穴の位置が若干不正確で、正しい音が出しにくい。
耐久性の問題: タンバリンは、数ヶ月使うと、鈴を留めている金具が緩んできた。
ウクレレ型ギターは、弦がすぐに伸びてしまい、チューニングが維持できない。
材質の問題: 木製を謳っている商品も、実際には合板や圧縮木材を使っていることが多い。音の響きが、本物の木材とは違う。
でも、一方で、100均楽器には大きなメリットもあった。
気軽に試せる: 110円なら、失敗しても諦めがつく。「もしかしたら娘に合わないかも」と思っても、挑戦しやすい。
壊れても買い直せる: 子供は楽器を乱暴に扱うことがある。でも、100均の楽器なら、壊れても「まあ、いいか」と思える。高価な楽器だと、壊されないように神経質になってしまう。
多様性を楽しめる: 限られた予算で、様々な種類の楽器に触れられる。ピアノ一つに何十万円かけるより、色々な楽器を経験する方が、子供の音楽的感性が広がるかもしれない。
私は、100均楽器を「本物への入り口」と位置づけるようになった。まずは100均楽器で試してみて、娘が本当に興味を持った楽器があれば、いつか本物を買ってあげよう。そう考えることで、罪悪感が薄れた。
娘の音楽的成長
100均楽器のコレクションが10種類を超えた頃、娘に変化が現れた。
リズム感が明らかに良くなっていた。カスタネット、タンバリン、トライアングルを使い分けながら、複雑なリズムパターンを刻めるようになった。
リコーダーも、学校で習う前に、簡単な曲を吹けるようになっていた。「ちょうちょう」「かえるの歌」「メリーさんの羊」。指の動きと息の強さをコントロールして、音楽を奏でる。
ある日、娘は自分で作った「楽器セット」を披露してくれた。
床にトライアングル、タンバリン、カスタネット、鈴、マラカスを並べ、曲に合わせて使い分ける。右手でカスタネットを鳴らしながら、左手でマラカスを振る。足元には鈴を置いて、足でリズムを取る。
一人で、まるで小さなオーケストラのように演奏する娘。
その姿を動画に撮って、後で見返した時、涙が出た。
「ピアノを買ってあげられなくてごめんね」という気持ちは、今でもある。でも、100均の楽器でも、こんなに音楽を楽しめる。こんなに成長できる。
むしろ、様々な楽器に触れることで、娘の音楽性は豊かになっているのかもしれない。

近所の苦情と防音対策
しかし、問題も発生した。
アパートの隣人から、苦情が来たのだ。
「お子さんの楽器の音、少しうるさいんですが…」
確かに、カスタネット、タンバリン、トライアングル。どれも小さいながら、意外と音が響く。特に夜、私が仕事から帰ってきてから娘が演奏する時間帯は、隣人にとって迷惑だったろう。
娘に「ごめんね、もう少し静かに」と言うと、娘は楽器を置いて、小さくなった。
「もう、やっちゃダメ?」
その言葉が、胸に刺さった。せっかく見つけた娘の楽しみを、奪いたくない。
私は防音対策を考え始めた。まず、インターネットで調べた。
防音室を作る?無理だ。狭いアパートに、そんな予算も場所もない。
防音カーテンを買う?それでも数万円かかる。
悩んでいた時、また100均に解決策を見つけた。
防音シートだ。220円で売られている、薄い防音シート。これを壁に貼れば、多少は音が軽減されるかもしれない。
10枚購入し、隣人との境界の壁に貼った。合計2,200円。さらに、床にはジョイントマットを敷いた。これも100均で購入。足音や、楽器を床に置く音を軽減するため。
完璧な防音にはならないが、音は確かに小さくなった。
そして、娘に時間のルールを決めた。
「楽器で遊んでいいのは、平日は午後5時から7時まで。週末は午前10時から午後6時まで。それ以外の時間は、音を出さない楽器で遊ぼう」
娘は素直に頷いた。そして、自分で工夫を始めた。
音を出せない時間帯は、リコーダーの指使いだけを練習する。音は出さず、指の動きだけをなぞる。エアギターならぬ、エアリコーダーだ。
あるいは、YouTubeで音楽理論の動画を見ながら、ノートに音符を書く練習をする。
娘なりに、制約の中で音楽を楽しむ方法を見つけていった。
隣人には菓子折りを持って謝罪に行き、演奏時間のルールを説明した。幸い、隣人は理解してくれて、「その時間なら全然大丈夫です」と言ってくれた。
むしろ、「お嬢さん、頑張ってますね。応援してます」という温かい言葉をかけてくれた。
学校での変化
娘が100均楽器で遊び始めて半年が経った頃、学校の音楽の先生から連絡があった。
「お母さん、娘さん、とても音楽的才能がありますね」
驚いて話を聞くと、学校の音楽の授業で、娘は群を抜いて優秀だという。
リコーダーは、クラスで一番上手。リズム感も抜群。音程を取るのも得意。
「もしかして、音楽教室に通われているんですか?」
先生の質問に、私は正直に答えた。
「いえ、通っていません。家で、100均の楽器で遊んでいるだけです」
先生は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「それは素晴らしいですね。楽器の値段じゃない、音楽を楽しむ心が大切なんです。お嬢さんは、本当に音楽が好きなんですね」
その言葉に、私は救われた気がした。
「高価な楽器を買ってあげられない」という罪悪感を、ずっと抱えていた。でも、先生の言葉で、「音楽を楽しむ心」が一番大切だと気づかされた。
さらに先生は、「学校の音楽会で、娘さんにソロパートを任せたい」と提案してくれた。
家に帰って娘にそのことを伝えると、娘は飛び跳ねて喜んだ。
「お母さん、頑張る!もっと練習する!」
その日から、娘の練習はさらに熱が入った。もちろん、時間のルールは守りながら。
音楽会当日、娘はリコーダーのソロを完璧に演奏した。体育館に響く、澄んだ音色。観客席で聞いていた私は、涙が止まらなかった。
100均のリコーダーから始まった娘の音楽が、ここまで成長した。
私も音楽を始めた
娘の音楽への情熱を見ているうちに、私自身も音楽に興味を持ち始めた。
実は、私も子供の頃、ピアノを習いたかった。でも、当時の家も裕福ではなく、諦めざるを得なかった。それから30年以上、音楽とは無縁の人生を送ってきた。
でも、100均に行けば、楽器が買える。大人の私でも、気軽に始められる。
最初に買ったのは、110円のハーモニカだった。
夜、娘が寝た後、こっそり練習した。最初は全く音が出せなかった。息の強さ、口の形、どれも分からない。
でも、YouTubeで初心者向けの動画を見ながら、少しずつ上達していった。
一週間後、簡単な「ちょうちょう」が吹けるようになった。
「お母さん、すごい!」
娘に見つかって、恥ずかしかったけれど、娘は純粋に喜んでくれた。
「一緒に演奏しよう!」
娘はリコーダーを持ってきて、私のハーモニカと合わせて「ちょうちょう」を演奏した。
二人の音が重なる。完璧なハーモニーではないけれど、私たちだけの音楽。
その瞬間、幸せだった。
お金がなくても、高価な楽器がなくても、音楽は楽しめる。音楽は、人と人を繋げる。
それから、私も少しずつ100均楽器を集めるようになった。ハーモニカの後は、オカリナ型ホイッスル、カスタネット、小さな鉄琴。
仕事のストレスで疲れた夜、楽器を手に取ると、心が落ち着いた。音楽には、癒しの力がある。

100均楽器の限界に直面する
しかし、娘の上達とともに、100均楽器の限界も見えてきた。
学校の音楽の先生が、「そろそろ、ちゃんとしたリコーダーを買った方がいい」とアドバイスしてくれた。
100均のリコーダーは、音程が不正確なため、娘の音感の成長を妨げる可能性があるという。
「教育用の良いリコーダーなら、3,000円程度で買えます」
3,000円。私にとっては簡単に出せる金額ではないが、娘の将来のためなら。
貯金を崩して、娘に本格的なリコーダーを買った。ヤマハ製の、学校推奨モデル。
娘は大事そうに、新しいリコーダーを手に取った。
「お母さん、ありがとう」
そして、吹いてみた。
音が、全然違った。
100均のリコーダーより、音が澄んでいる。響きが豊か。音程も正確。
「すごい…こんなに違うんだ…」
娘は感動していた。そして、私に言った。
「でも、100均のリコーダーも大切にする。これがなかったら、私、リコーダーを始めてなかったから」
その言葉に、私も頷いた。
100均楽器には限界がある。でも、それは「始める」ための完璧なツールだった。
もし最初から3,000円のリコーダーを買っていたら、「もし娘が続けなかったら…」という不安で、買えなかっただろう。
100均楽器があったから、気軽に始められた。そして、娘が本当に音楽が好きだと分かったから、次のステップに進めた。
100均楽器バンドの結成
娘が小学3年生になった春、面白いことが起きた。
娘の友達が、我が家に遊びに来た時、100均楽器のコレクションを見て目を輝かせた。
「すごい!こんなにたくさん!」
「私も、これで遊びたい!」
娘は嬉しそうに、友達に楽器を貸した。そして、一緒に演奏し始めた。
一人がタンバリン、一人がカスタネット、娘がリコーダー。即興で、何か楽しそうな音楽を奏でている。
それを見ていた他の友達も、「私も入れて!」と言い出した。
気づけば、5人の子供たちが、それぞれ100均楽器を持って、ワイワイと音を出している。
「ねえ、バンド作ろうよ!」
誰かが言い出したその言葉に、みんなが賛成した。
それから毎週土曜日の午後、我が家は「100均楽器バンド」の練習場所になった。
子供たちは、自分たちで役割を決めた。
- リズム隊:カスタネット、タンバリン、マラカス
- メロディ隊:リコーダー、ハーモニカ
- アクセント隊:トライアングル、鈴、鉄琴
最初はただ音を出して遊んでいるだけだったが、徐々に「音楽」になっていった。
娘が、リーダーシップを取るようになった。
「ここは、タンバリンが強く叩いて」 「トライアングルは、一拍休んでから入って」 「みんな、もう一回、最初から!」
娘の指示に、みんなが従う。そして、何度も練習を重ねる。
一ヶ月後、子供たちは簡単な「アンパンマンのマーチ」を演奏できるようになっていた。
決して上手ではない。プロの演奏とは比べものにならない。でも、子供たちが自分たちで作り上げた音楽。それは、何よりも輝いていた。
「お母さんたちに、発表会しよう!」
娘の提案で、子供たちの親を集めて、小さな発表会を開くことになった。

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